いちばん恐れて、いちばん望んでいたこと
LIFE UPDATE LETTER Vol.349 Jun 19, 2026
【JOURNAL】いちばん恐れて、いちばん望んでいたこと
先日、奥多摩の鳩ノ巣渓谷を歩きました。深い谷の底に、エメラルドグリーンの川。水の音と、鳥の声しかありません。
その川を見下ろしながら、自分の心が、しんと沈んでいくのを感じていました。落ち込む、という意味ではありません。むしろ逆で、騒がしかったものが底のほうへ静かに沈殿して、上澄みだけが澄んでいく──あの水のように。なぜこんなに落ち着いているのだろう、と歩きながら考えていて、ひとつの問いに行き当たりました。
何年か前、美術家の横尾忠則さんにインタビュー(対談映像はこちら)したとき、僕はこう尋ねたことがあります。
「明日、すべてがゼロになっていたら、どうしますか?」
実績も、知名度も、積み上げてきたものが、朝起きたら全部消えている。絵を描いてきた人にとっては、絵が描けない状態に戻るということでもあります。意地の悪い問いだったかもしれません。普通なら、ぞっとする問いです。
横尾さんの答えは、忘れられません。「最高だね」と。
毎朝、すべてがゼロに戻っていたら、それは最高だ、と横尾さんは言うのです。むしろ、その状態を求めている、と。絵が描けることは、大事なことではない。絵が描けない、その真っ白な状態からはじめて、描いてみたいと思う。初心とは、そういうものだ、と。かつてやったことをなぞるのではなく、何も持っていない状態にこそ、いちばん戻りたい。そう、静かに話してくださいました。
当時の僕は、すごい言葉だと思いながら、正直、その深さがわかっていませんでした。問いを投げた本人が、その答えの意味を、わかっていなかったのです。
それが、いまになって、ようやくわかる気がしています。なぜなら──自分が投げたあの問いを、いま、僕自身が生きているからです。
詳しくは書きません。ただ、最近、僕は自分の帰り道にかかっていた橋を一本、焼きました。正確に言えば、自分でもなかなか焼けずにいた橋が、向こうのほうから、ちょうどよく燃えてくれた。長く慣れ親しんだ場所へ戻る道が、もうなくなった、ということです。
不思議なのは、それが、いちばん恐れていたことであると同時に、いちばん望んでいたことでもあった、ということです。怖かった。間違いなく怖かった。でも心の奥のいちばん深いところでは、ずっと、こうなることを願っていた。橋さえ架かっているうちは、人はいつでも引き返せてしまう。引き返せるから、思いきって飛べない。橋がなくなって、はじめて、前へ飛ぶしかなくなる。
思い返せば、二十年近く前、独立したあの日から、心のどこかでずっと感じていました。自分が本当に行きたい場所へ移っていくためには、いま手にしているものが、いつか全部ゼロになったほうがいいのかもしれない、と。握りしめているかぎり、人はそこから動けない。手の中がいっぱいなら、新しいものは持てない。わかってはいても、自分からはこわくて手放せずにいた。それが、ほどけた。
だから、心は澄んでいます。渓谷のあの水のように。沈むものは底に沈んで、上だけが、静かに澄んでいく。
そして面白いことに、橋を焼いてからのほうが、世界が一気に開いてきています。原点に戻って、もう一度、世界へ飛び込もうとしている。世界中で出会ってきた人たちの声を、二冊目の本として書きはじめていること。その続きを書くために、また海の向こうへ出ようとしていること。忙しさにかまけて先延ばしにしていたことが、「行く」と決めたとたん、次々に動きだしました。近く、海外での取材も決まりました。ずっと「いつかは」と心の奥に置いたままにしていた人たち──十年来、会いたかった人や、英語で話を聞いてみたかった海の向こうの人──にも、だめでもともとと連絡してみたら、あっさり扉が開いた。自分で先に飛ぶと決めた瞬間から、世界の側が、それに応えて開いていくように感じます。失ったぶんだけ手が空いて、その空いた手に、もう次のものが乗りはじめている。
横尾さんの「最高だね」は、きっとこういうことだったのだと、いまになって思います。ゼロは、終わりではありません。いちばん身軽な、はじまりの状態です。橋の焼け落ちた先は、断崖ではなく、次の海でした。
考えてみれば、インタビューも、会社をやることも、長く続けるとこなれてきます。こなれてくると、表面的には──少なくともその場では──できるような気になってしまう。場をさばく要領も、それらしく見せる手つきも、身についてくる。でも振り返ると、いつでも素人だった頃、まだ何ひとつ要領を得ていなかった頃のほうが、面白いものを出せていた気がするのです。あの頃には邪心がなかった。無心だった。計算もビジネスモデルもなく、ただ「この人に会って話を聞きたい」という一心だけで動いていた頃のほうが、ずっと良かった。
いつでもその場所に──素人の、無心の場所に──戻れる人のほうが、結局は長く生き残るのではないか、と思います。たくさん積み上げたから強いのではない。いつでも手放して、素手に戻れるから、強い。横尾さんの言葉は、そう言っているように聞こえます。
そして、頭でわかっても日々いろんなものが積もるからこそ、僕はときどき、ああいう谷へ出かけるのだと思います。鳩ノ巣の川を見下ろして、何も考えなくなる、あの数時間。あれはきっと、僕なりの、ゼロに戻る時間なのです。
明日、すべてがゼロになっていたら、どうしますか。
かつて誰かに投げたその問いに、いまなら、僕も少しだけ、答えられる気がします。きっと僕も、また素人に戻りたいのだと思います。何度でも、ゼロから。
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人生をアップデートする、3つの入り口
橋を焼き、両手を空っぽにしたその「余白」にこそ、自分が本当に進むべき次の道が浮かび上がってきます。 僕が23年間、数え切れないほどの対話を通じて確信しているのは、良い「問い」に出会うことこそが、心にその余白をつくり、人生を本質からアップデート(更新)する最強のスイッチになるということです。 もし今、あなたが新しい自分をはじめようとしているなら。僕が磨き上げてきた、そのための確かな「3つの入り口」を用意しています。いまのあなたに一番合う場所から、ぜひ扉を開いてみてください。
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【編集後記】
そんなわけで、いまは机の上に、近く出る海外取材の準備を広げています。資料を読み、会う人のことを調べ、問いを練る。この時間が、好きです。
インタビューの準備というのは、相手をコントロールする計画を立てることではありません。むしろ逆で、当日どんな話が流れてきても受け取れるように、ただ静かに、身体を整えておくこと。準備をすればするほど、本番では何も握らずに、その場の流れに身を任せられる。
握らないために、準備する。矛盾しているようですが、これがいちばん、腑に落ちる準備のかたちです。横尾さんふうに言えば、当日の朝、用意したことを一度ぜんぶ忘れて、ゼロで座れたら、たぶんそれが最高なのだと思います。
それでは、どうぞすばらしい週末をお過ごしください。
早川洋平
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LIFE UPDATE ──
人生を更新する、インタビューマガジン。
23年・国内外2000人以上との対話を続けてきた、早川洋平のインタビュー番組です。各界のトップランナーから市井のプロフェッショナルまで。音声(ポッドキャスト)を中心に、お届けしています。通勤の道で、家事の合間に、眠る前のひとときに。あなたの毎日に、そっと「更新」を。
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